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2024年 第33回YOSAKOIソーラン祭り 6月5日(水)~9日(日)開催!

2021年08月3日

【30周年スペシャルストーリーズ VOL.02】なんもさ会

YOSAKOIソーラン祭り30周年記念企画
【30周年スペシャルストーリーズ】

第2回目は、知る人ぞ知る!?「なんもさ会」の面々!
祭りが年々大きく形を変え成長していく初期にチームをつくって参加、演舞で祭りに旋風を巻き起こしたほか、北海道内の「支部」立ち上げに携わり、参加者の立場からこの祭りをけん引してきた方々です。
祭りに参加するきっかけ、当時の祭り・参加者の熱気や、チームの立場から祭りを盛り上げ 作り上げてきた想いを語っていただきました。
「なんもさ会」誕生秘話や、当時ならではのエピソードも満載!

なんもさ会・・
●町田 好弘 氏
(wamiles踊り子隊 美翔女 代表、YOSAKOIソーラン祭り組織委員会 元理事、札幌中央支部 元支部長)
●森岡 幸人 氏
(パスキー&北海道医療大学 代表、YOSAKOIソーラン祭り組織委員会 元理事、札幌中央支部 元支部長)
●梶浦 宣明 氏
(新琴似天舞龍神 総代、一般社団法人YOSAKOIソーラン祭り組織委員会 副会長理事、札幌TWN支部 支部長)

上記3名の方々に高知の池上さんを交えた4名で構成され、「少年の心を持ったあほな中年の祭り好き集団である」と定義されています。祭中八策を定め、祭りを見守り、盛り上げてくださる心強い皆様です。

※WEBマガジンでは文章として読みやすくするため、YouTubeにて放送されている表現と一部違った部分がございます。
(聞き手:下畑浩二)

 

Episode.1 YOSAKOIソーラン祭りに関わることになったきっかけ

梶浦: 第5回のYOSAKOIソーラン祭りに初めて参加したんだけれども、5回に参加するまでYOSAKOIソーラン祭りというものを見たことが無くて、まぁなんか大通公園で何かやってるっていうのはわかったんだけれども、その大通公園で非常に感動し合っている人がいたり、そういう姿を見たんだよね。それがYOSAKOIソーラン祭りだということが分かって、第4回のYOSAKOIソーラン祭りが終ったときに、今もいるチームのメンバーが、麻生という地域にはYOSAKOIソーランのチームがあったんだけれども新琴似には無いな、と。我々、新琴似に生まれ育って、ずっと新琴似に住んでいるものとして、やっぱり「地元愛」というものが強いもんだから、若い者が何かできないだろうかと。今まで新琴似は屯田兵の人たちからずっと昔からいて、若い人たちが相手にしてもらえないような地域だったけれども、そんな中で、自分たちも何かはできるんだ!ということを、いつかは出していきたいなという思いを持っていた。それが神輿であったり、そしてYOSAKOIソーランというものをみて、こうしたもので地域活性化にならないかなと。新琴似を盛り上げたいなと。新琴似は昔から2つの地域に分断されていたということがあって、地域の人にしかわからないかもしれないけれども“新琴似は1つなんだから何で分断してるのかな”と。そんなときに、このYOSAKOIソーランを通じて1つにできないのかなと思いもあった。地域の活性化、と“新琴似は1つだ”という想いがあって。そういったことで、この“YOSAKOIソーラン”をつかって一緒に何かできることがあれば地域が1つになるのではないかなと。
そんなきっかけから、YOSAKOIソーランを始めた。

町田: 俺んとこの事務所、大通の近くで、毎年6月になると“うるさい”。なんかやってるな、と。駅前通りで北大の学生たちが体中に墨を塗ってふざけてやってる、、、ふざけてるのか真面目だかは知らないけど、それを見たことはあったから、おそらくそういうもんだろうと思っていた。(※注1) 思っているだけで知らなかった、YOSAKOIソーランっていうものを。
第5回のYOSAKOIソーラン祭りに新琴似天舞龍神が出た時に、うちのスタッフが俺に黙って踊ってたのね。それを聞いたもんだから、4丁目のコース出るときに、俺、事務所から走って見に行ったの。どういうものかなと。そしたら、普段と全然ちがうメイクと衣装と踊りと、、新琴似の踊り子をずっと三越まで追いかけて見ていたの。普段おとなしい人だから、それがこんなことやるのかと。そんときに俺は“おし、来年はうちも出よう”と。(会社スタッフの)女の子はたくさんいるわけだから、その場で決断よ。すぐその足で旅行社に行って、高知行を頼んで、10人位のスタッフで向こう(8月のよさこい祭り)に見に行ったの。本場を見ないと話しにならんと、行ったわけよ。そしたらなんとなんと、ものすごかったわけよ。踊ってやってきたひとも、倒れて酸素をこうやって(吸引)やって、夏だから。汗びっしょりだし、向こうは酒飲んでるし、すごい熱気と祭りだったわけ。“これはやらないわけにいかないな”とダメだと、で戻ってきて、チーム結成して、それで出た。(新琴似天舞龍神が)最初の年に新人王(賞?)を取ったわけ。それで次の年、うちがとったわけ。それで新人王なくななっちゃったの。そういう感じで、俺は初めて見てびっくりして、それで始めたっていうのがきっかけ。

森岡: うちもお二人と同じように、はじめは、、、うるさい⤵っていう、、もう車はふさがれるし、うるさいし、もうもう人はすごいし、なんなんだと。それがきっかけだよね。常にビジネスをやっている中で、私は神輿とか(も)やってたから祭りごとは好きだったし、あと地元の企業としてなんかイベントに参加したいなと、会社を上げて。そういう気持ちはずっとあって、そうしている内に医療大の初代の代表が“いきなり”訪ねてきて、3,4人かな。熱いメッセージで「私たちと一緒にやってもらえないだろうか」と、会社と(私たち)医療大学と。「えー大学生とやるのか」と、「大丈夫か!?」と。もう(大学生に対しては)チャラチャラしたイメージしかなかったから。いろんな話を聞いているとその熱意と、熱さと、ね。じゃあやろうかと、と、それがきっかけかな。医療大学とは3回目からかな。2回目、ある大学に支援というカタチでは入ったけど、社員も入ってないし、ただサポートしただけで、本格的にやったのは3回目からかな。

―なぜピンポイントでパスキーに医療大の子たちが飛び込んできたんですか?

森岡: なんか、後から聞いた話ではね、岳ちゃん(※注2)がね、どうも「行け!行け!」っていったような、ね。2回目に支援していた関係で(長谷川さんが、大学生たちに)絶対に行けと言われたようなことを、ちらっと聞いたかな。“裏でやったな”と。

町田: あそこには金があるぞ!と笑

梶浦: 行ったらヤ○ザみたいな事務所で笑

※注1 おそらく、北海道大学の文化祭の告知のためのプレイベントである仮装行列のことかと思われます。
※注2 第1回目実行委員長 長谷川岳さん

 

Episode.2 チームカラー・コンセプトを決めたきっかけ

梶浦: 最初、さっき言った通りYOSAKOIソーランを知らないままでいたから、衣装もどこで作ったらいいかわかんないし、踊りもどこで作ったらいいかわかんないし、曲もどうしていいかわからない状況だったんだよね。まぁそんな中で、森岡さんにはよく「暴走族みたいなチームが出てきた」って言われてた笑

森岡: 「取り締まれ!」ってw

梶浦: とにかく、俺も当時33歳だったから、

―チーム名も漢字ばかりでしたしね。愛羅武勇(あいらぶゆー)みたいな

森岡: “龍”だしね

梶浦: そのころからイケイケのタイプだったから、そんな中でわけわかんないで作ったのさ。衣装、ほんとどこで作っていいかわかんないから、(専門学校の)ファッションドレスメーカーのファッションショーを見に行って、“もしかしたらここの学校で作ってもらったらいいんじゃないだろうか”とか。曲もわからないし、曲も昔ディスコに行ったくらいで、わかんない中で96年(第5回)は作ったんだよね。作ったときにセントラルのことはあまり知らなかった。第4回までの(祭りのこと)知らないんだから。平岸天神のことはわかってた。“あ、このチームが優勝しているチームなんだ”と。このチームに負けてたまるかと。あのころから偉そうに言ってたんだけど「南の王者が平岸天神なら、北の王者はうちだ!」と、勝手に言ってた。で、やっぱり平岸強いじゃん。うちは言った通り1年目で新人賞とったのね。“意外と簡単にいけるんだな”と笑 とにかく“イケイケ”だけで新人賞だから、2年目は大賞だ!みたいな。人数も230人以上いたし、絶対大賞だ!と。うちらが多すぎて(人数の)上限ができたようなもんだ。そんな中で、2年目も出ました、イケイケで出ました、地方車なんて3階立てみたく作ったしね。それでイケイケでいったんだけど、何も(賞に)当たらないのさ。何も引っかからないのさ! 大賞だ!って気持ちでいってるのに、(賞が)発表されても何もないのさ。「あれ?おかしいなー。」と思ったんだよね。そんな時に“誰か審査員を捕まえて絶対問いただしてやろう”と後楽園ホテルの1階で待ち伏せしてて、待ち伏せしてたら“伊藤多喜男”がはじめ降りてきて、その伊藤さんを囲んで「なんでうちがだめだったんだ!」と。そしたら伊藤多喜男さんも大人だから「今のYOSAKOIソーラン祭りを変えていかなくてはいけないよね」って、さらっときたんだよね。この人にもっと話を聞きたいなと思って(その後も)追っかけだしたんだけど、それは置いといて。うちがカラーを決めたのは、平岸天神が強いわけさ、あの時(第5回)は極楽とんぼが優勝なんだけれども、平岸天神がすごいなと思ってたから。極楽とんぼが勝っても、4プラ(a' la collette!? 4プラ)が勝っても平岸天神が強いなと思っていた。平岸天神に勝つにはどうしたらいいかなと、平岸と違う路線にしなければならないなと。あそこも半纏を着て“和”だけれども、うちも和でいくためには“平岸と違う和”にしなければいけないなと思って着物にしていったんだよね。着物だけだと少し間抜けな感じがしたので笠をかぶるようにしたんだよね。平岸とは違った路線の和のチームを作って、打倒平岸天神というつもりでずっと進んできたので、とにかくきっかけは、今があるのは“平岸に勝つためにはどうするか”。踊りもそうだよね、それまでは8列で整列して踊ってたんだよね。あれじゃうちのオバさんとかがいるチームじゃ平岸には敵わないなと、それでいろんな構成をするようにしたりして、、、、、まぁここの三人(新琴似天舞龍神・ワミレス踊り子隊美翔女・パスキー&北海道医療大学)はいつもライバルでいたけれども、和では(ライバルは)平岸だから、ここの3人は路線が違うから情報交換とかはいつもしてるけど、「どんな曲よ?」とか「どんな衣装よ?」とか。でも和の打倒平岸だから、それをやってくうちに今のものになっていった。究極の和を作っていこうとなった。

町田: まったく同じだけどね、初めて出てね、新人王とかとるとナメるんだわ。

梶浦:そうだよね、簡単だもんね笑

町田: だから、次の年は(目標は)大賞よ。もう数のチカラで、なんなら250人くらいいたんじゃないかな。行っても行っても踊り子が切れないって言われて、それで人数制限になったんだけど。やっぱり2年目、カスらず、さ。当時はDoCoMoの人気投票があって、それでファイナルに出たっていうことはあったんだけれども。うちはどっちかっていうと和でもない、洋でもないっていう、、、洋のチームは少なかったね。うちは今でいうジェンダーフリーだけれども、真ん中で。どこかのマネしても、“後から入った組”だからしょうがないからということでやったんだけど。3年目で優秀賞を取っちゃったの。チームカラーもへったくそもないのさ。ただ数のチカラで押してたっていうだけの話。2年目でカスりもしないで、3年目で優勝に入っちゃったもんだから、これはどうしたものかと。見てると素人の集団だから、振付師はそれなりにいるんだろうけど、やってる事がなんというか、訴えかけるものが似たようなものだったりして、これからどうするかっていうときに、やっぱり一番大切なのは“演出をどうするか”“いかにして魅せるか”っていうね。曲も大事、振付も大事、衣装夫大事なんだけど、それをどうやって魅せるかっていうときに、たまたま山本寛斎さんと知り合ったもんだから、意気投合して“やる”って話になって総合プロデュースをやってもらった。なんせ相手は“世界の寛斎”だから俺も相当やりあったりしたんだけど、YOSAKOIって縛りがあるじゃないですかいろいろ。寛斎さんっていう人はその縛りを飛び越えてどデカイことをやりたがるわけ。でも「それは通用しないんだ」と。当時、うちなんかも相当言われたんだけど、「山本寛斎をYOSAKOIに引っ張った位だから、そうとう金をつかったんじゃないか」って言われたんだけど、そんな金あるわけない。パスキーと違うんだから。

森岡: いやいや笑

町田: 本当に寛斎さんには気の毒なくらいで、友情出演が映画であるように、そんな感じで。俺が2月7日生まれで、あのひとが2月8日なんだよね、同じ年だから、そんなこともあって仲良くなって。なんせ総合プロデュース山本寛斎、曲は加藤和彦、メイクはNHKの大河なんかやってる柘植伊佐夫、振付も自分が連れてきた人で劇団四季でやってたなんていう。。。これ4年目の2000年の時。3年間やってきたことは何だったんだろう。3年間はラジオ体操みたいなもん。それが(4年目に踊り子が)プロの踊り子みたいなことを要求されるわけだよ。まぁあれはすごかったね。。。最初、足がこれくらい(90℃)しか上がらないようなやつが、頭の上まで上がるようになってんだから、それはすごかったね、練習が。泣いてたけどな。フォーメーションがあって、自分が欠けると他の人に迷惑がかかる、だから一番厳しい時だったけど辞める人がいなかったんだな。緩くなったら辞めるんだよ、辞めてったんだけど、その一番きつい時っていうのは誰も辞めなかったね。体中が故障者だらけっていう状態だったけど、まぁ最後までやったね。。。

森岡: うちは、ご存知の通り学生がほとんどで、あと社員と社会人。だからまぁ、とにかく「元気」でいこう、ということからスタートだよね。声出していこうと。それで準大賞(1998年第7回)獲っちゃってから、そこからポポポーンと調子にのっちゃって、ほんとに煽(おだ)てりゃ木に登るタイプで笑 我々も感動したし、観ている人にも感動っちゅうことでコンセプトを「一緒に感動!一緒に元気!」に。必ずフラッグ(旗)を持って「ここを目指せ」っていうのを持って、その年その年、“導く”ようにして、必ずストーリー性を持たせようと、そういったやり方(作り方)をしていた。絶対、踊り子は(練習の時)わからない。5月の中くらいまでわからないかな。もうそれぞれのパートでやって、ぐちゃぐちゃやらせて、それで5月の中くらいにコンセプトとストーリーを伝えるんだ、みんなに。そしたら、涙流す人間もいるし、そこでみんな魂が入るんだよな、踊り子に。そこからガラッと変わるし、踊り子の表情が変わる。それを毎年やってたし、それが楽しかったね。これだけ、こう道というか、到達点というか、演じる何かを伝えると人って変わるんだなと毎年感じていたし、みなさんもそうだと思うけど、曲に対しては神経使ってたね。遠くから聞こえても「あ、あれ天舞だ」「あ、あれワミレスだ」ってわかるくらいの特徴をみんな持ってたし、たぶんうちも遠くから聞こえたときに「あ、あれパスキーだ」って、ね。

 

Episode.3 当時の3チームの交流

―チームのそういった話を聞くと、当時チーム同士の交流っていうのも昔はあったのでしょうか。

森岡: 仲、よかったよ。助け合ってたね。

梶浦: 会えば挨拶するし。

町田: 他はやってたかわからないけど、やってたな。

森岡: 俺がライバルだけど、“仲間”だなと感じたのは、何年だったかファイナルステージの時、後ろに並ぶじゃない。で、うちらが演舞するっていったときに、後ろのチームが初めてファイナルだったチームだったのよ。そしたらがっさがさ旗とかいろんなものを後ろに並べてたのさ。そしたら梶やんとかチームの幹部たちが俺らの代わりに「どけー!!!」って言って、もうばったばた、やっちゃだめだけどブン投げてた笑 もう「邪魔だろー!!」とか言ってね。あれはね、仲間だなーと思った。そういうお互い“助け合う”っちゅうのはあったよね。

 

梶浦: あのころね、みんなはわからないけどね、3人集まってね、あれは、、5月くらいかな。。

森岡: そうそう、組織委員会にテープを出すじゃない?テープを出したら持ち寄るの

梶浦: どんな曲よ~ってね。

森岡: お互い聞かせ合う笑

梶浦: パスキーの会議室かな。3人で集まって。俺は目指せ平岸天神でやってきたんだけど、やっぱり三者三様なわけさ、チーム。だから良きライバルで、ジャンル違うから、なんちゅうのかなホント良きライバルでずーっときてさ。お互い切磋琢磨して、例えばワミレス2000年の作品だって、あれホント素晴らしいけどね、大賞にならなかった(※注3)。あの時は本当に大賞だって言われてたんだから、でも爆弾事件で大賞にならなかったけど。でも、あそこまでなるのも、なるべくしてなるというか、踊り子たちをああいう方向に向けてった寛斎さんなのか、町田さんなのかわかんないけど、ああいう風になっているチームは今無いのではないかと思う。あそこまで踊り子が盛り上がって、本当に集中して、あそこまで創り上げる気持ちになっているチームは今無いのではないかと思うのさ。なるべくしてあそこの(レベルの)作品出来てるのさ、俺、本当にそう思ってるのね。町田さんたちが苦労して苦労して苦労して、ケンカしてやってきたんだけれども、でもそれが出来上がったときには、みんなが心を一つに、一つの気持ちにみんな向かっていったんだよね。だからあーいう作品が出来たんで、俺、ああいう風になんないと大賞獲れないと思ってるのさ。みんなが、あーいう気持ちになってくれないと。それは“何か”なんだよ、毎回毎回の練習に踊り子たちにそういう風にさせる、させないと大賞って難しいし、、、、、毎年、大賞は出るんだけどね、あのワミレスのあーいう気持ちになってまで大賞獲ったっていうことは無いと思う。あれ、ワミレス、大賞獲ったらものすごい感動だったと思うよ。

町田: 3年目からの変化がね、あまりにもすごかったからね。

梶浦: 作品もいいんだけどね、ひとり一人の気持ちもね、そういう風になっていったんだわ。俺もパレードの練習中、誰だったかな、、組織委員会の、、耕作じゃないよな、、「今年、ワミレスさん、いいです」って来たんだわ。「うるせぇ!!この!」ってね笑

森岡: そのくらいの時代、あっちこっち行って言ってた。うちに来ては「天舞さんがいいですよ」とか、煽られてたね笑 うまくやられてたよ笑

※注3 2000年は30年の歴史のなかで本祭で審査が行われなかった年

 

Episode.4 道外遠征の思い出 お祭り立ち上げのエピソード

森岡: その当時ね、3チーム集まって道外にいくと、俺らにね、サイン求めるのよ。ずーーーっと並ぶのよ。この方々(自分除く2人)、サイン作ってんだから笑 笑ったな。そして、俺、サイン作ってないから自分の名前書くじゃん、したら、二人はサラサラサラ~って、「なんじゃそりゃ!!」よ。

梶浦: ホントに並ぶんだよね、、買ったばかりのTシャツよ。 いろいろありますよね、みちのくYOSAKOIも始め立ち上げから行ってて、(地元の人が)「YOSAKOIやりたい」って言って、仙台の定禅寺通りに、クリスマスのちょっと前くらいかな、12月のころにね。仙台ではスズメ踊りが、ちゅんちゅん、ちゅんちゅんやってるけど、YOSAKOIソーランのような大音響の祭りがないものだから、うちのチームだけが仙台に行って、地方車も持っていって、パレードやってたら2回目で止められたの。「なにをしてくれるんだ!!!」って、街中が「ガラス割れる!」って「辞めてくれ!」と、それでそのお祭り終わっちゃったの。そうやってYOSAKOI見せに行ってきたんだけど、最初はずっとゲストで。何年くらい行ったのかな。そういうようにお祭りづくりにも協力してったっていうのもあるし、まぁ日本海もね。3チームどころじゃなく、札幌のファイナルチーム行っているから、乱舞童、三石も、蒼天蘭花と。福島も3チームで行ってね。

町田: 千葉も行ったね。

森岡: 三重は、ワミレスは行きましたよね。三重は毎年行ってたかな。

町田: 仙台なんか、あれよ、ポータブルのカセット持って動いてたよ。音響・スピーカーをリヤカーに載せてだよ。それで煩がられて、止められて、それでもダメさ。みちのくはひどかったよ。

 

Episode.5 札幌市内支部の立ち上げ

森岡: きっかけはね、長谷川岳ちゃんの策略に嵌められたんだよ。夏のすすきの祭りに、当時まだ、3人仲いいわけじゃなく、お互いに「何なんだよー」って、風貌もこんなだし。それが、すすきの「さっぽろっこ」に来てくださいってなって行ったんだよ。そしたら岳ちゃんがいなくて、お二人(町田・梶浦)さんがいて、それぞれ呼び出しくってて、(他に人が来るってことをそれぞれ)知らないんだよ。で、「あ、どーも」っていうのがスタート。それで岳ちゃんがきて「支部制を始めたいんです」ってなって、そっからだね。

梶浦: あのころね、なんでかわかんないけど長谷川の策略でね、札幌市北区と平岸地区が一緒になってくれさ、「なんで(地域が離れているのにも関わらず)北区と平岸がくっつかなきゃいけないんだ」と、TWN支部(たうんしぶ)はT:手稲、W:west西区、N:north北区さ、それが北区と平岸一緒になってくれ、さ。なんでかなと思ったら、ここが上手く2つくっつけとけばいいと思ったのかもしれないけど、そりゃないべと。それで北と西と手稲、白石と厚別と東、そして中央、と南、最初は4つ。

町田: だいたいあの長谷川は独断専行でなんでもやっていくから、監視する組織というか、文句言うところが無いとだめだということでやっぱり。それで数のチカラもったから、支部もチカラを持っていた。(組織委員会に)言うことも言ったし。

森岡: 最初のころなんか、よく3人で岳ちゃんを呼び出しして、もういろんなこと言ってたからね。

梶浦: でもやっぱり、自慢するわけではないけど、あそこは、岳とこの3人と連携してね、今、YOSAKOIソーランが成り立っていると思うよ。

森岡: 最初はほんとね。こっちは各チームを何とか説得したり、納得してもらったり。

梶浦: (長谷川氏が)やりたいって言うことを言ってくるんだ。それに対して(いろんなバランスをみて)「いや待て」とか逆に「いややるか」とか。チームまとめてもらえますか、とかね。

森岡: だから、あんまりあの当時、独断専行できなかったと思うよ。

梶浦: はじめ、長谷川くんはさ、チームが自分の傘下と勘違いしてたもん。「俺の作った祭りに参加しているんだから、俺の言うこと聞くの当たり前だ」みたいな。そんな雰囲気あったけども、そんなことあるか!と、俺は俺のチームだと、お前に言われる筋合いはないって。そういうのあったからね。でも協力はしますよ、と。一緒にやっていこうや、と。観る人と、作る人と、参加する人と、これが一体になってなきゃいけないと思ったから、俺たちももうちょっと中に入らせてくれと(もうちょっと祭りの運営に参画させてくれと)。

町田: 今と違うところはそこじゃねーかな。今は自分のチームのことしか考えてない。我々はYOSAKOIソーランをどうしていくかっていうことを、一緒になって創り上げていくみたいなところがあったからな。

 

Episode.6 なんもさ会 誕生秘話

森岡: あほんだら会からだよね。

町田: 俺、よさこいの右も左もわからなかったから、3年間、高知のセントラルにチームのメンバー連れて付いて回ったんだ。そのときに「あほんだら会」っていうのがあって、向こうもまぁすごかった。あほんだら会の連中の顔ぶれったらさ。(一部活字割愛:Youtubeをご覧ください)

―セントラルグループの幹部の人たちの集まり、みたいなものでしたよね。

町田: 当時もすごかったから、道で足だしてようもんなら「どけ!!このやろう!」みたいな。踊り子が地方車のトラックのまえを歩いていくんだから。そうやって道を開けて、まぁそういうことがあったわけよ。そういうの見てたから、北海道が勢いついてきたときに「じゃぁ我々もなんかやるか」という話になって、これに高知の池上をいれて「なんもさ」になったの。あいつが「さ」だっけ?

梶浦: 「かい」にも人をはめようって話もあったけど

森岡: あったけど、中途半端な人間入れてもしょうがないから。おじさんたちのそういった会を作ってもいいんじゃないの、と。チームを超えた、ね。、、、そしてね、ずるいんだわ。はじめ「名前どうするどうする」っていって、結局2人は「森岡さん考えて」って!!ずーっと悩んで、北海道らしい事ってなんだろうなって考えて考えて、、、「あぁ『なんもさ』がいいな」って

 

Episode.7 今と昔 今後の祭り・チームへのアドバイス

梶浦: さっき町田さんも言ったけど、チームがあんまりまとまってない。個々になってきてるなというのは感じる。それはある時から、そういう風にさせられたっていうこともあるんだけれども、横のつながりがなくなって、チームが本当に個々になってしまって、辞める人は勝手に辞めていくし。やっぱりあの頃は、いろんな情報交換をしていて、横のつながりをしっかりもっていたから、辞めたいと思った人たちも、その輪の中に入ってきたら「もう一回がんばろうか」って思ったり、そういうことが薄れてきた。なんかみんな個々になってきたっていうかね、だから(祭りに)一体感があるかっていうと、無いと思うのさ、ぜんぜん。

町田: 聞いててわかると思うけどさ、こうやってライバル同士で切磋琢磨してやってるから、どんどん良くなるんだよね。個々になると“それ”が無いから。まぁ今は時代性もそうなんだろうけど、ほんとにつまらなくなってる。言ってみるとチームの自己満足を見せられてるっていうかな、祭り全体のあれではなくて、個々のものを見せられてる。作る方もそうしてる。そう意味では全然おもしろみがなくなってる。

森岡: 30年も経てば、5年10年、また20年前から全部が変わってきているんだよ。いろんなものが。(祭り以外の)楽しい事も増えたし。だから祭り自体もさ、変えていかなきゃ。もっと変えないと。踊りのルール付けもそうだろうし、なんかその、、魅せ方もそうだろうし、もっとなんか変えないと。まぁ言うが易しだけど。

梶浦: 例えばチームにさ、「どういう祭りにしたい?」ってフォーラムとかで聞いても、それに対する答えが無い。だから、自分たちは“今あるお祭り”に参加しているだけなのであって、自分たちが苦しくなったら辞めていく。自分たちでどうしたいという考えが無いというかね。もう少し自主的にそういうことが考えられる、、、、、、、、、まぁ時代なのかな。。。。代々、人が代わっていくでしょ。薄れていくんだよね、想いが。

森岡: 今までの当たりまえのこととか、枠組みを一回取っ払って考えなきゃダメだろうし。見てたら耕作も忙しそうだし。やっぱり耕作とか事務局も一緒になって、もっと考えなきゃならないし、さっきから言ってるチームの方々、もっと連携して強い繋がりで考えていかないと、そして全国的にももう少し連携すべきだと思うよ。北海道は北海道でやったって駄目だとおもうよ、これからの時代。だったらもう飛び越えて全国、やらないとみんなで。

 

Episode.8 最後に

梶浦: これどうするの?

―組織委員会のYoutubeにあげます。

森岡: しっかりと編集してね。

 

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