2022年03月4日
【30周年スペシャルストーリーズ VOL.04】酒井珠己子
YOSAKOIソーラン祭り30周年記念企画
【30周年スペシャルストーリーズ】
スペシャルストーリズ第4段 三石なるこ会 代表 酒井 珠己子 さん
第3回初出場 高知県人会会長賞、第4回 ソーラン節のふるさと積丹町賞、第6回・8回 準YOSAKOIソーラン大賞、第7回 優秀賞
第5回 ベストドレッサー賞、第10回 札幌市長賞、第11回 YOSAKOIソーラン大賞を受賞
祭りを通して港町・三石町(現・新ひだか町)発信のチームで「Peace&Love」を表現。当時、90歳近い方が最高齢踊り子として参加していたことも。
楽しいことをしよう!町を盛り上げよう!と立ち上がった「浜のおかあちゃん」たち。当日のノリや雰囲気を、明るく楽しくお話しいただきました。
※WEBマガジンでは文章として読みやすくするため、YouTubeにて放送されている表現と一部違った部分がございます。
【Episode.1 YOSAKOIソーラン祭りに関わることになったきっかけ】
酒井 : きっかけは、私が第2回のYOSAKOIソーラン祭りのテレビを見ていたの。その中で長谷川さんのインタビューがあって「100人の大学生が踊っている」っていうのを見て、『わぁー!すごいことやってるなぁ』って。というのがきっかけかな。それと並行して私たちお友達5,6人が“三石の秋祭りで女神輿をやりたいね”って言って。
男神輿があったので、そこに相談にいきました。「おみこし貸してもらえますか」って。そしたら「重たいから最低70人はいないと担げないよ!」って。ちょっとあきらめたんです笑 そんなに集まるわけないし。で、どうしようかってなって、私はSTVのテレビをみていたので「こんなこと(YOSAKOIソーラン)やってすごかったよー」って言ったら仲間が「それ調べて!」って。みんな見てなくてわかんなくて。それで私の長谷川岳さん探しが始まったんですよ。
それで、北大に電話をかけたり、生協に電話をかけたり、5,6件、みんながつないでくれたんです。「ここへかけなさい」「ここへかけなさい」っていう具合に。最終的にいったのは北海道新聞でした。私は素人のおばちゃんなので、そんなこと(北海道新聞に連絡すること)念頭にも無くて。今考えれば単純なんですけどね。そこまでずっとつなげてくれたんです。みなさんが。
それで長谷川さんとお話しして、そこから始まって。静内にいる短大生、女のこを紹介してくれて。そこでノウハウ(を教えてもらって)、曲は伊藤多喜男さんのソーラン節。最初、1回目の振付は彼女(短大生)がしてくださったんです。
その振付は、私たちからしたら、、、もうおばさん(なんで)!そしたら(彼女が)「振付は好きなようにしてくれていいです」って言ってくれて、その振付をカット!カット!カット!カット!して、すごい単純な踊りにして、8月のお盆のころ、35人位あつまって、その振りで1回踊ったんです。まぁ幼稚園のグランドだったんですけど。で、9月の15日の秋祭りにパレードしようかって、(YOSAKOIソーラン祭りのような)真似をしてね。それを呼びかけたら70人から集まったんです。おばちゃんたちが。えぇ!!てなって、すごい天気も良くて、きもちよぉぉぉっくパレードさせてもらいました。
その時に短大生の彼女が見に来てくれて「札幌行きませんか?」って「えぇ!!?私たち札幌行けるんですか?」「行けます!」ってなって、そのころ10人くらいいた役員で相談して、「やっぱり1年待って、(まずは)観に行こう」っていう考え方と、「いや、もういっちゃえ!!」っていうので、どっちが勝ったかっていうと「いっちゃえ」なんです。恥も外聞も無く笑 それが第3回だったんです。その時の紹介アナウンスが「一番、北海道の遠いところから来てくれましたチームです。」だったんです。
下畑 : では第3回は札幌から一番遠いところからの参加は三石からだったと。
酒井 : そうです。そんな感じでYOSAKOIソーランに関わることになったんですよね。その次の年、長谷川さんが「もうちょっとYOSAKOIソーランらしい踊りをしませんか?」って言われて笑 「一応、頑張ります」って笑
下畑 : ちなみに第3回の出場の時は、衣装はあの大漁旗(をあしらったもの?)・・・?
酒井 : いや、ピンクの普通の半纏です。それも、ほんとにお金が無かったので、衣装屋さんが「出世払いでいいよー」って。出世払いっていうのも良く分からないけど、札幌に行くってなったときに130人集まったんです。第3回のときに。
下畑 : 最初に出た時のご感想は。
酒井 : それはですね。。。すごかったです。私たちも札幌にきて、街の中、四番街、大通。そこで踊れるとかなんとかって言って。見てくださるかたも、テレビを見てて「YOSAKOIソーランってどんなんだろう」っていう人たち。
大通にしても桟敷席なんて無かったですから。人の輪が四重、五重になってみんな「観たい!見たい!」っていう想いがすごい伝わってくるんです。この四番街も。私たちも「踊れてうれしい!」っていう気持ちと、「観たい!」っていう想いがバッティングしてすごいエネルギーでした。
(第3回の様子)
【Episode.2 YOSAKOIソーラン祭りから町おこしへ】
酒井 : これは地域おこしではないんです。ただ踊りたいんです。札幌にきて大通について、地方車に三石町って漢字で書いてあるんですけど、いろんな方に「なんていう名前の町なんですか?“さんせき”ですか?“さんごく”ですか?って聞かれて、だれも“みついし”って呼んでくれなかったんです。私たちは普通に“みついし”って読んでたのに、誰も読んでくれない。それで帰ってから“町おこし”が始まったんです。
下畑 : 実際に町おこしを始めるにあたって、(全道から)大々的にメンバーを募集したりしたんですか?
酒井 : いえ、そういうことはしてないんですね。130人、口コミで集まってくれましたし、人数的には最高だったかな?
下畑 : その年って地元で踊る機会ってあったんですか?
酒井 : ありました。6月のYOSAKOIソーラン祭りが終って、9月に秋祭りでパレードさせてもらって。その時も(お客さんや盛り上がりが)すごかったですね。町の・・、町というかいろんなところから見に来てくれたみたいです。「え??三石にこんなに人いたの??」っていうくらい・・・・えぇ。
三石の資金源っていうのは、その町の祭りで踊ると、“お花”って知りません?、、、、なんていうのかな、何かそうしたイベントがあると皆、熨斗袋に金一封って書いてくださるんです。それを私たちは“お花”って読んでるんですけど。それが、100万から集まったんです。すごかったですよ。
【Episode.3 三石なるこ会のトレードマーク制作秘話】
下畑 : 三石なるこ会と言えば、ポスターにもなりましたが、リバーシブルの裏が大漁旗になっている法被。これは何回くらいからのデザインなのでしょうか。
酒井 : 私たちが出て3回目なので、、(下畑:じゃぁ第5回ですね。) そう、5回目。
下畑 : 僕もとても印象に残っているのですが、昔の漁師の方がたが使っていたものをそのまま使って、、ということでしたよね?
酒井 : そう、漁師の方々からいただいて、それを(加工して)チーム役員のみんなで半纏を作ったんです。毎日集まって、1枚、2枚、、、5枚、と慣れてくると(一日に作れる量が)増えてくるんですけど、みんなでつくりました。役員10人位で、交代で。
そのころは、家の食事のおかず、1品は減ってると思います笑 みんな夕飯の支度をして、集まって縫ってたので。。。うちの主人も、私がYOSAKOIソーランに夢中になっちゃってたころは、「俺は納豆とたまごで生活している」っていうくらいに笑 もうこの話はSTVかどこかのテレビ局で公になっている話なので大丈夫です。みなさん、そんな感じでした。
下畑 : あと、ぼくらが印象に残ってるのは、なるこ丸っていって、地方車に“船”載せてましたよね??
酒井 : 第6回、、だったかな。あれは三石にいた船大工さんに作ってもらったんです。あれを作って、一番喜んだのはだれか・・・?それは長谷川さん笑 それこそ、みんな地方車は四角いものだったのに対して、立体系が出てきたので、すごい喜んでくれましたね。
下畑 : ちなみにあの“なるこ丸”はどこにあるんですか?壊しちゃったんですか?
酒井 : うちにあります。あれ、本物の(船をつくるための)木です。函館のドックまで買いに行って作ってもらって笑 ほら、、、(うちの主人)凝るから。自分で製図して作ったんじゃないかな。。
【Episode.4 みついし蓬莱山まつりと三石なるこ会】
酒井 : みついし蓬莱山まつりの実行委員長が主人だったんです。なので、「こんな素晴らしいもの、みんなにも観てもらいたい」っていって、踊るようになったんです。
日高支部大会も兼ねてやったときは、10チームくらい、、いたかもしれない。(泊りがけのチームなんかは)三石温泉に貸布団敷いて雑魚寝してもらいました。本当に、私たちも来てくれたことに感謝して。当時、平岸天神さんとかa' la collette!? 4プラさんとか、すごいチームが来てくれました。
下畑 : (そうしたチームに)三石和牛とか、、出してましたよね?しかもウニ丼が食べれる?とか聞いて。海産物も食べられるとかで、踊り子たちにとても人気の遠征でしたよ。
酒井 : 1泊してくれたチームには、主人も一生けん命いろんなものを用意して。こんな遠くまで来てくれるなんて、、楽しんでもらう!って言って。たくさんの人がきて、イベントとしてはすごかったですね。
みついし蓬莱山まつり2017年チラシ
【Episode.5 北海道外遠征の思い出】
酒井 : 津まつりとか、沼津にも行きましたし、あとどこだっけな。。佐世保も行きましたし、あと京都とか。いろんなところに行かせてもらって、本当に楽しかったですね。あ、福井も行きましたね。
(遠征には)地方車を持っていくんです。私たち先発隊で地方車もっていくんですけど、わたしと主人と、石原さんっていう運転手さんと、鴛鴦隊(おしどりたい)※注 なんですけど、3人でいつもいくのかな。
フェリーで行くと、「船」から「船」が降りてきますよね。そうすると、その光景を見ている人たちが「おおぉぉぉ~、船から船でてきた~」って喜んでくれて笑
※注 鴛鴦隊・・・三石なるこ会の浜のおばちゃんたちの旦那さんたち。チームの大道具かかりなど、主役の周りの役を担う。
【Episode.6 大人数の地方チームの裏話】
下畑 : 三石町(現・新ひだか町)って、町としては小さいじゃないですか。そこで130人の方があつまるなんてことは、結構珍しいことですか?
酒井 : 珍しいなんてもんじゃないですね。何かをするチーム(団体)としては(この先三石町では)無いと思います。
それが、おばちゃんたちばっかり(独身のかたもいるんですよ。)っていうのがすごい意味があったんだと思います。
メンバーには同じ三石町でも練習会場まで30分以上かかる、山のほうに住んでいるお母さんたちがいたんです。夕飯の用意をして、自分たちはおにぎりを食べながら走ってくるんです。それはすごかったですね。やっぱり、踊りが好きっていうのね。
当時の三石で人口は6千人くらい。今はもう4千人くらいかな。お母さんたちばっかりといっても、三石町内の地域地域で主となるお母さんたちなので、それをまとめていくっていうのがね、、それはたいへんですし。でもみんなちゃんと話を聞いてくれるんです。それは札幌にいってちゃんと結果を出してる、「札幌にいったらすごいよ!」って言ったら「本当にすごいね!」っていって言ってくれたり、ちゃんと結果を出しているので。なので、相談にものってくださる。
いつだったかな、、、大賞を受賞した年だったかな。わたし、フォーメーションですっごい悩んでいたんです。どうしたらいいのか、どうやったらイメージしているフォーメーションができるのかって。素人だからわかんないし。その時、「ちょっと右向いててくれる?」ってみんなにいって、相談を始めたんです。すんごい時間かかって。10分、15分だったかな。それで練習にもどってきたら、みんなが同じ方向を向いている。「どうして、あっち向いてるの?」「えっぇえ~酒井さん、『右向いてて!』っていうからずっと向いてたのに!!」って笑 ごめんごめんって、そのくらい信用してくれてました笑
【Episode.7 第11回YOSAKOIソーラン大賞について】
下畑 : 大賞を獲った年は、それまでの年と「何かちがったな」ってことはありましたか?
酒井 : ・・・・違いましたね。。なんかわかんないんですけど、西8丁目のステージを演舞が終って降りてくると、わたし、泣いちゃったんですよね。どうしてだろう?って思ったら、踊っているときの雰囲気が違うんです。
ステージから降りてきて、涙が出てきて、みんなが「どうしたの???」って、でも「大丈夫大丈夫」って。それがまさか大賞につながるとは思ってもない。ただ、なんか、踊ってて、『違う』と。違ったんですよね。
「どうしたの酒井さん」って言われても、「いや、わかんない」って泣いちゃいましたね。
町の皆さんの反応も、それまでも、札幌まで応援に来れなくても、みんなテレビの前ですんごい応援してくれてたんです。だから大賞獲った年もみんなテレビで応援してくれていて。100人いたら100人それぞれ聞こえてきて、、、、、何かすごかったみたいです照
大賞獲った時の練習も、週3回かな。9割のメンバーは出てきてくれましたね。6月までびっしり。
6月が終わっても、その後の祭りなどもあるので、そのまま。そのころは江別支部(北海道江別市)っていうのもあって、その人達も週3回、そのために江別まで行ってたので、1週間に十日来い、じゃないですけどそれくらい行ったり来たりしていました笑
当時、若いし、エネルギーあったなって。今は出来ません笑
【Episode.8 地方におけるチームつくりの苦労】
酒井 : 苦労、、、苦労っていうか。。夢中でやっているので、苦労とは感じないんですよね、全部。
わたしがおこしたことですけど、みんなが「自分がおこした」って思って、それぞれ役割分担してやってくれているので、全然苦労とは感じなかったですね。25年、出なかった年もありましたけど、25年間お祭りに出てました。
休止については、三石町の人口も限られてましたし、若いお母さんたちは子育て中なので、なかなか人が集まらなくなっていったんですよね。
下畑 : 地方のチームは、酒井さんがおっしゃるように「夢中でやっている」時はいいけど、若い子たちも減っていきますし(町を出ていく)、ぼくのチームにも三石なるこ会出身の子がいるんですよ。
酒井 : そうみたいですね!三石町で高校生だった子たちが、大学で札幌に出ていって、その大学に限らず踊りたかったチームに行って、活躍しているっていう話を聞いて、すっごい嬉しかったですね。。
大学に行ったからYOSAKOIソーラン辞めたっていうことは、あんまり聞かないですね。
人数も少ないんですけど、みんなどっかこっかで。楽しく踊ろうっていう基本があれば、人数が少なくても、その地域で活躍していけると思います。一人でも二人でも若い子が入ってきてくれれば、というのもありますが。
【Episode.9 チーム解散の決断】
酒井 : 三石なるこ会が解散した理由は、やっぱり年齢層。
曲がかかると踊るんです。でも終わって家に帰ると足痛い、ひざ痛い、腰痛いっていうのをみんな体感してきて、自分が若いころのイメージ、そこまで追いつかないというか、ぜんぜん体が動かなくなって。それに対して踊るっていうのが、すっごい嫌だったんですよね。
そこから自分がYOSAKOIソーランから離れる話が始まって、「じゃぁこの三石なるこ会を、誰かやりたい人に渡そうか」って話をもっていっても、なかなか難しい。「じゃぁ、始めたわたしが幕を降ろそう」っていって、みんなに相談して降ろしました。
【Episode.10 YOSAKOIソーランの昔と今の違い】
酒井 : エネルギーが違うと思います。観てくださっている方のエネルギーが違うとわたしは思います。
踊る方としてはエネルギーは一緒だと思うんです。ただ、観てくれている方のエネルギーは違うと思います。だからチームが倍々に増えていきましたよね。そうすると、その地域の方も札幌に応援にくるので、観客の人数も増えていると思うんです。みんな背伸びしてみてくれてましたからね。私もその内の一人だったわけですけど笑
だから、それに対するエネルギーは絶対に違うと思います。あれが戻ってきたら、またYOSAKOIソーラン祭りは爆発(的に盛り上がる)すると思います。それをするにはどうしたらいいのか。
やっぱりお客さんと距離をおいちゃいけないんですよね。今、空いてますよね、桟敷にしてもなんでも。一番感じるのは桟敷が終ってチームが移動する場所ありますよね。交差点とか、そこでお客さんたちが首を伸ばしてみてくれているんです。あの方たちのエネルギーって、やっぱりすごいなって。
第6回YOSAKOIソーラン祭り新琴似会場
【Episode.11 YOSAKOIソーラン祭りへ願うこれからのカタチ】
酒井 : やっぱり、今、チームの人数って減ってきてますよね。私が100人のチームをみて、立ち上げて100人で踊りたいって、でもそれではなかなか難しい世の中になってきたので。
それでも、人数が少なくても、最後まで楽しく踊ることができる、お祭りづくりをしていただきたいなって。
今、スピードが速いですよね、全ての面に対して。やっぱりおんなじことをしていちゃダメなんですよ。飽きちゃう。
だからスピード感をもって引っ張ってってくれないと、たぶんみんな飽きてくると思います。
今の世の中、スピード感、早いでしょ?本当はゆったりしているところもあっていいんですよ。でもそのゆったりかんを見る方もどれだけ理解するか。難しいですよね。
(最後に)
ゆったりしたいときは三石に遊びにきてください💛
なんか、楽しめる、YOSAKOIソーラン祭りであってほしいかな。
たいへんですけどね。
がんばってください。